日本の離れイルカ

イルカはクジラと同じ「クジラ目」に属する哺乳類で、野生の場合、通常は数頭から数十頭の「ポッド」と呼ばれる群れを形成しながら暮らしていますが、たまに「群れ」から離れ、一頭だけで人間と交流するイルカが現れることがあり、英語では「ハーミット・ドルフィン」「フレンドリー・ドルフィン」、日本語では「離れイルカ」「はぐれイルカ」などと呼ばれています。
遠く、ギリシャ時代から、地中海を中心に数多く語り継がれている、いわゆる「イルカに乗った少年」の話は、皆ハーミット・ドルフィンだと言われています。
今世紀に入ってからも、世界中で数十頭が確認されています。

そんな「離れイルカ」が、1995年頃、伊豆諸島の「利島」に現れたのです。釣りをしていたら「ジャンプするのが見えた」とか、桟橋の先に「大体毎日同じ時間に来る」といった目撃が相次ぐ中、離れイルカと人間の直接の「出会い」は、イセエビやサザエを捕るために、潜って漁をする漁師さんにイルカ自らが近づいて来たことから始まりました。「最初はサメかと思って本当に驚いた」と語る漁師さんたちも、次第にイルカが来ると手を休めて遊んでやるようになり、お互いの信頼関係が結ばれました。以来、イルカは岸から数十メートルの距離をおいて丸い島の周りを約1時間かけて回り、途中で人間に会うと、ひとしきり共に遊ぶという生活パターンが定着しました。その情報は、遠く離れたカリブ海の小さな島国「タークス&カイコス諸島」の、国宝になった離れイルカのジョジョ(JOJO)の保護監視官をしていたディーン・バーナル氏の元に届き、バーナル氏が急遽来日、利島の漁師さんにイルカの保護を呼びかけたこともありました。

そのイルカ(体長約2.5メートルのメスのミナミハンドウイルカ)は、島に棲みついて程なく、80キロメートル南にある御蔵島に生息する群れから離れたイルカであることが判明しました。
御蔵島でイルカの個体識別を行っていた「バンドウイルカ研究会」によると、その個体は、体の側面にある5つの丸い傷の配列から、「カシオペア」と名づけられていたイルカで、すでに2回の出産経験があることもわかりました。
なぜ群れを離れて利島にやってきたのかは不明ですが、「離れイルカ」の出身が判明しのは、世界でも初めてのことでした。

1998年、そのイルカが子供を産んだのをきっかけに、地元でダイビングサービスを営みながら、イルカの保護を訴えてきた藤井雅彦さんと、島で映像取材を行っていた「サークリット」が中心となり、故 富田信作村長を代表に「利島ドルフィンプロジェクト」を始動、世界的にも貴重な「親子の離れイルカ」の保護にのりだしました。富田氏のアイデアで、母子イルカを島の特別住民として認定、「利島心(しん)住民」第一号として、特別住民台帳に登録。島の人たちが見守るなか、親子イルカの名前が全国公募により、母親がココ、子供がピコと名づけられました。その経緯は新聞、テレビ等で広く報道されましたが、日本で、地方自治体が「イルカ保護」を表明したのは前代未聞のことであり、その情報は「エルザ自然保護の会」の協力と呼びかけにより、外国の保護団体に広く伝えられ、「利島ドルフィンプロジェクト」には、「JOJOドルフィンプロジェクト」や「ホエールス・アライブ会議」の参加団体など、世界各国のイルカ保護団体から感謝状が贈られるなど、大きな反響を巻き起こしました。

1999年夏、ココとピコは主な生活の場を、利島と新島のちょうど中間に位置する無人島「鵜渡根島」に移しました。その理由は不明ですが、おそらく、子育ての場として、無人島を選んだのかも知れません。
その後、鵜渡根島周辺で、ココが尾ヒレで水面を叩きつけながら、ピコに何かを教えている姿が頻繁に目撃されるようになりました。

2001年以降、以前からココとピコを快く思っていなかった人間による捕獲、暗殺未遂の噂が流れるに至って、「利島ドルフィンプロジェクト」では、周辺海域の役場、漁協、観光協会等に対し、チラシを配布するなどして、ココとピコの保護をお願いしましたが、2002年7月以降、ピコの姿が見えなくなりました。
その後も、母親のココだけは鵜渡根島周辺に棲み続け、以前のように人間とは遊ばなくなり、また、尾の部分が白くうちわのように丸く欠けている(ケガか病気かは不明)ものの、元気に泳いでいるという報告が届いていました。 (以上、サークリットHPより転載)

そして…、2011年9月、なんと、母親の「ココ」が、12年振りに利島に戻ってきたのです。利島ドルフィンプロジェクトの藤井雅彦氏によると、ココは利島に棲みついたイルカの群れを先導しているのだそうです。早くも、肝っ玉母さん振りを発揮しているのかもしれません。                    

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